昭和五十七年一月二十四日 朝の御理解
x信心の心得 一、子を産むは我力で産むとは思ふな皆大祖神の恵む處ぞ 一、懐妊の時腹帯をするより心に真の帯をせよ 一、出産の時よかり物によかるより神に心を任せよかれよ
お道の信心の尊い事、有難い事わからせて頂くという事は、とりもなおさず教祖金光大神の残しておられる御教えを、実験実証して御教えに嘘はないと、間違いはないと教祖の御教えを実験実証して行く、証をたてて行く。それが私は教祖金光大神の信心を世に現して行くという事は、そういう事だと思うんです。為にはやはり、その教祖の神様の御教えそのものをいよいよ忠実に実験して行く。いわゆる守らして頂いてね、そして成程教祖様は嘘はおっしゃってない、こういうおかげが受けられるんだという証をたてて行くという事が、お道の信心を頂いてそしてお道の信心が、このようにも尊くて有難い御教えである、宗教であるという事を身をもって表して行く。いうならお道の信者、信奉者としての責任において、私は表して行かなきゃいけませんと、ね。為にはやはり教えの徹底という事がいるんじゃないでしょうか。
先年、南米の末永先生の所では、それこそ、もう普通では、ま、今日あたりの様な所が本当にわからしてもろうて、自分の力で産というのではない。神様のおかげで産なさせて頂くのだ。それには信心の腹帯をするより信心の真の帯をしっかりさせて頂いて、いわゆる、よかり物によからずという事は、たよる者にたよらずという事ですよね、よかり物というのは。頼らずね、神に心を任せてよかれ、とこうおっしゃっておられる、神に心を任せてよかれ。なかなかもって、そういうあのう、所までなかなか出来ません。けれどもね、あちらでは、まあ幸いそういう日本の様に行き届いた設備とか病院とか産婆さんとかという者が、まあいない。まあ土地になれないという事もあろうけれども、そういう所をもう本当に、あの、前の子供もやっぱそうでしたけれども、今度の真佐世という娘が生まれた時なんかは、それこそ夢の中におかげを頂いとるんですからね。夢を見ながら、ま、痛いもなかりゃ痒いもないのだから、いわゆる隣知らずの安産でありね、こういう事が出来るだろうかと思うけれども、まさしく金光大神の、いうならば今日皆さんに聞いて頂いた御教えをね、実証したわけです、ね。それをたびたびの子供の上に、これは私共も、段々信心が、まあ、いうならば本当なものになってくるにしたがって私共、北京で長女と長男、いわゆる今の豊美と勝彦があちらで生まれたんですけれども、も、二人とも大変な難産でした。え、信心頂とりましたけれども、やっぱり、その実証しきってなかった。ところがおかげを頂きまして、あの、今椛目に行っとります愛子からこっちというのは、もうそれこそ、隣知らずの安産のおかげを頂いて来ております。いうならば、もうお産の事だけなら私に任せて下さい、という様なものが家内の心の中に確信が生まれてきたんですね。神様を信ずる。もう勿論、ですから腹帯なんかをした事がありません、という様にね。
その教祖様の御教えというものは、はあ、現代の世に今時そういう事という、それは決して産婦人、先生に診てもらう事はいらんとか、かかる事はいらんという事じゃないですよ。先だてからも、やっぱりそういう事を実際実験実証したいという願いをもってますからでしょう。竹内先生所は、まあだその、もうおそらく今月が産み月でしょうか。だからお医者さんにかかっとらなかったちいう、それで周囲からヤアヤア言われて、まあまいりましたら、行ったら又小野先生が、毎日注射に来いとか何とか言われるげなけん、もう行きたくないらしいですけれども、私が修行と思って行けと私は言ってます、ね。修行と思って毎日行けという、ね。まあ、申しております事ですけれども、まあ私がいつも申します様にね、例えば注射一本、薬一服でも、もう絶対にからだに毒なんだからね。これは。だからその、毒が変じて薬になる。昨日、私は丁度、幹三郎の部屋でいつも顔をあたってもらいますからあたってもらいましたら、孫が加代太郎といいます。大きくおかげを頂いてもう歯が上下から生えとります。ところが、こうべんぷ(顔)がもうガサガサしよりますからね、こりゃどうしてこげんガサガサしとるかって聞いたら、石けんがあわないのでしょう、とこういう。だから石けんをつけなきゃいいじゃないか、というて申しました事ですけども。石けんだって毒です。毒の証拠にはかぶれる事があるでしょうが。皮膚を美しゅうする、と言うてつけるクリ-ムだってそうです。毒です、ね。ですから、その、つけちゃならんじゃない、それが変じて薬になる。変じて薬が効くという事に。だから私はお薬を頂く時でも、どうぞ毒薬変じて薬になります様に、というて頂かにゃならん、飲まなきゃならん。教祖もやっぱそこんところをね、「薬れ祈れにするからおかげにならん」とこうおっしゃる、ね。「祈れ薬れにすればおかげになる」とおっしゃっておられますようにですね、教祖様の御教えを本当に、この実験実証しようとする所から色々な問題がございますけどもね。一辺、そういう所が本当にそうだという事がわかってからの薬であり、わかってからの産婆さんであり、お医者さんであるという様なね。ですからそこに、まあいうなら何ていうでしょうか、神ながらなおかげという事にもなってくるわけです。私はこの事をいつも思うんですけれども、これはね、出産とかお産という時だけの事だけではない。一切がそうなんだと、ね。だからこういう、んなら、いよいよ教えを、そりゃまあ産婆さんがおるのに産婦人科が、例えば合楽の場合なんかは、毎日その、小野産婦人科の先生がもう何十年間毎日日参してきますからね。もうあそこが色々面倒見て下さるから、から行くなという事ではない。薬を飲むな、注射しちゃいかんという事じゃない。けれども、そういう所をふんまえての信心でなからんとね。いわば隣知らずの安産という様な事にはなってこない。ですから、これはそういう信心というものの基礎的な基本的なものがどういう所から生まれてくるかというと、やっぱり日々の信心生活の中に神様の御守護を受けなければでける事ではない。神様におすがりしなければでけないという事を体験して行く事も、どんな小さい事からでも、お取り次ぎを頂いてお願いをしてからという事になってくるわけ、ね。そこから、まあ昨日、お月次祭にも聞いて頂いた様に、もう兎に角ね、合楽でぎりぎりわからせて頂く事は一切が神愛ね。もう本当に、もうこの世でこうして一生懸命信心して徳を受けておるけれども、これはも、あの世の為に、あの世に持って行く事の為に、又この世にも残しておけれる事の為にこの世はあの世の為にあるんだ、という様な、まあ確信という様なものが、ま、これは合楽理念のいうならば原点です、ね。ここん所がいよいよ確かなものになっていかなければならんのです。為にはね、そこを頂かせて頂くためには、昨日のお月次にも申しました様にね、吉井の熊谷さんのお導きでお参りをしてみえる、もと熱心なクリスチャンで洗礼まで、洗礼と、何ちいうでしょうか、こう、キリスト教にもうあがってしまったという事の式まで受けておられる方でしたけれども、初めの間は金光教というのを非常に軽く見ておられたらしいですけれども、おかげを事実頂いてみて、もう目の当りに見せて頂くおかげが続々と頂かれるものですから、今、金光教に熱心に信心をなさる様になって、そして昨日お参りをして見えてからのお届けに、ある誰かが“いつもお棺を側に置いておけ”という、その、それもお夢の中ですから、お棺が昔は桶のお棺がね、を頂いてその、そんならお夢の中でもお知らせじゃろうというのです。だから、も、これは自分が死ぬとじゃないだろうかと思うて、大変不安になって昨日はお伺いかたがたお参りした、とこう言われるわけですけれども、それはそういう事ではなくて、もうこれは信心の、まあいうならぎりぎりの、いうなら秘訣でもあり要諦なんだ、ね。お互い私共がいよいよ一切が神愛とか、というような、その事が本当にわからして頂く事の為にです、いつもどのような場合であっても、ままよという心が出来る様な日々をおくらせてもらう所から生まれて来るのが安心である、ね。まあ、いうならばどうでもよい、という心なのである。これ、まあ、放任主義的な意味でのどうでもよいじゃないですよ。神様にお任せしてあっての事だからどうでもよい。右、左はもう神様にお任せしてある、というのです。それを、な、厳しくいうとままよという心なんです、ね。そのままよという心におかげがある。けどもうひとつ難し言うと、ままよとは「死んでもままよの事ぞ」とある、ね。ここの所の、いうならば信心度胸とでも申しましょうかね、でけてまいります時に、私は頂けるのがお徳だと思うです。どこまでもどんな場合であっても神様を信じて疑わないと、よし、それが、なら死ぬる様な事になってもいといません、というくらいな神様へ対するその思いというものが、念というものが強くなってまいりますと、ね、いわゆるままよという心がどんな場合だってもままよというね。神愛の中にだって起きておる事柄。例えばお産であってもです、ね、注射ばしよらにゃ、薬ば飲みよらなきゃ、まあ、一週間に一辺くらい行ってこうやって揉んでもらうかどうかしよらなければ、というのじゃなくて、もうそんな事ではないんだとね。我力で産とは思うなと。なら、今日はここの三つの御神訓をね、聞いて頂きました、その言葉の中に表れている通りでありますね。「子を産は我力で産とは思うな。皆大祖神の恵む處ぞ」これは子供だけの事じゃありません。私共がいうておるおかげというのもです、もう天地の親神様のお恵みを受けての事なのだからという、その根本的な所がわかるという事。出産の時(懐妊の時)腹帯をするより、とこうある、ね。いよいよこれは出産の時だけじゃない、いよいよここでね、その、おかげが産みなされる、ね。私はひとつの難儀といった様なものを感じる時には、それこそ良いおかげが生まれる為の、いうなら懐妊のおかげを頂いたという事と同じ事だと思うね。だからそれが十月十日というでしょうが。時期の来るのを、いうならば信心修行さして頂いて、そこに安産のおかげを頂くお産であるなら、安産のおかげを頂くと同時に、いうならば私共の、はあ難儀というけども難儀じゃないなあ。あの難儀と思とったあれが神愛だったなあ、と思わせて頂けれるほどしのおかげが生みなされてくる前提なんですよ、ね。だから、ひとつの問題でも全ての事に御の字をつけて、御事柄として、御物として頂いて行けよというのが、まあ、昨日からお話しとる事なんですよね。
懐妊の時、腹帯をするより心に…‥そういう時にです、いよいよ、あ-の、こ-のという心配せずに、ね。も、それこそ腹帯をするよか信心の帯を本気でしっかりしめ直す。こんなこっじゃいかんと。ひとつの修行精神をふるに起こさせて頂く、という事でしょう。出産の時、よかり物によかるよりという事は、もうどういう時、こいは出産の時だけじゃない。あの人にも頼んでおこ、ね。この人にもお願いしとこ、これ特に試験なんかの時はそうですね。何か偉い人に頼んでから入れてもらおうと。成程、それは入れてもらうかもわかりません。お金を沢山使って、んならお金に頼って入れてもらおう。成程、それでは入れられるかもわかりません。しかしそれが、その子供の幸福につながるという事は、もうはっき…‥あげな学校に入っとらにゃよかった、と思う様な事にもなりかねないのです、ね。この辺の所をです、ね、よかり物によかるより人に頼るのじゃない、というて、なら病院もあり産婦人科の先生もここにおられるとこういうね、いうならばひとつの願い事、頼み事もです、ね、例えばお金が足りんならお金が足りんという時でもです、人にでも頼っちゃならんぞと。けれども、まあ親しい友人なら友人が使うときなさらんかと言うて、あのうね、貸して下さるとか何とかと、いうならこれは別でしょうが。自分がすがったりそれに寄りかかったりしてはならないで、いよいよいかん時はあそこに借りにいこ、等といったのは、よかり心がある間は絶対おかげにならんです。これは本当です。いうならば今日私が思う、もう兎に角それでなら、倒産なら倒産という事になってもです、もうままよというそのドン腹をすえる。いうなら倒産してもよいという腹を据えた時、そこからおかげにもなればそれが力にもなるのです、ね。ですから今日私が皆さんに聞いて頂いたこの三つの出産に対する御教えですけれども、いわゆるおかげを産みなしていく、お徳を産みなしていく、という事の場合はこれと同じひとつの原理ですから、道理ですからね。色々の場合にも、それこそ神様一心におすがりをして行く。いよいよの時には、神様に身も心も任せきってしまう、ね。そしてそれが右、左になる事はもうあなたにお任せする。それが例えば、死ぬ、生きるといった様な事であってもままよ。「ままよとは死んでもままよの事ぞ」というような、私はドン腹というでしょうかね、信心度胸も段々作っていって、それこそ末永先生じゃなかばってんね、一番、長男が生まれた時に帰って来ました。はあ、も、親先生おかげ頂いて、玉の様な男の子が産まれました。ち言うもん。そいで私が笑い出した事でしたけども、自分の子供ば玉の様なてんなんてんち言うちから。けども本当にやっぱ実感だったじゃないでしょうかね。もう本当に、その玉の様なおかげをね、皆さんが頂たせて頂く為には、それこそ、よかり物によかるのじゃない、ね。向うからよかり物がここにやってくるならば、こうしてもよいけども、よかり物によかろうと思うて、こうこうやって行きよるとよかり物がこうやって、引っ張られたら自分がひっくり変えらんならんでしょうが、ね。だからね、私、信心の本当の力を頂いて行く為にはこういう所を、ま、今日のでいうならば、出産の事から、まあヒントを得て、信心の全ての事につながる事でありますがね。そこの所をいわゆる神様一心というのはそういう事をいうのじゃないでしょうかね。神様一心の信心をさせて頂かなきゃなりません。どうぞ。